Home 一番街について 街路のヒミツ 加盟店一覧・商店街マップ enjoy!一番街 enjoy!一番街 加盟店一覧・商店街マップ 街路のヒミツ 一番街について Home お問い合わせメール 笹谷街道基点の地、一番街商店街 現在の一番街商店街の様子 モニュメントご紹介 元三日町の様子と歴史   
山形市七日町一番街ロゴマーク
笹谷街道基点の地、一番街商店街

★ 笹谷街道起点の地、一番街商店街

 笹谷街道は、仙台−山形間の最短路として、およそ1千年の昔から利用されています。笹谷街道という名で呼ばれるようになったのは、明治初期の夏頃です。七日町一番街は、笹谷街道の山形道入口と言われております。
 その後、自動車の普及など交通事情の急激な変化とともに、昭和45年に国道286号線となり、56年には笹谷トンネルが開通しました。

笹谷街道入り口
一番街商店街の入り口アーチに
「笹谷街道入り口」とあります

★ 現在の一番街商店街の様子

緩やかなカーブを描く車道は、山形市を代表する河川、馬見ヶ崎をイメージしています。

街路地モノクロ

街路地カラー

歩道には、光ファイバーで星座が浮かび上がる、12ヶ月の星座盤があります。歩きながら、それぞれの星座盤を探す若いカップルや親子の姿も見られます。歩く方にも楽しみを与えてくれる街路になっています。
「自然」をテーマに、欧州田舎町をイメージした街路になっており、電線を地中に埋めてあるので石畳や星座盤がいっそう映えます。
星座盤


一方通行が終わる曲がりかどには対向車の侵入を防ぐため泉水盤を設置してあります。
一番街を通りかかった小さな子供たちは、湧き出る水に夢中になって、 その場で楽しむ親子の姿がよく見られます。
  夜になるとライトアップされて、昼間とはまた違った表情が楽しめます。
泉水盤
花笠をモチ−フにした泉水盤
ページトップへ▲

★ モニュメントご紹介

☆ 手作り郷土賞

 「手づくり郷土(ふるさと)賞」は、地域の方々の創意と工夫により、地域の持つ個性、魅力を引き出し、地域の誇りやシンボル、あるいは憩いの場となっている身近な河川、道路、公園などの社会資本整備を顕彰し、広く一般に紹介することにより創意・工夫・努力を促し、ゆとりとうるおいのある個性的な地域を進めていくことを目的として、昭和61年度に創設されたものです。

 第10回手づくり郷土賞にて、山形市七日町片町線は「コミュニティー部門」として認定されました。
郷土賞

☆ デザイン会議 in yamagata'93

 日本文化デザイン会議'93山形
Jupan Inter-Design Forum'93 Yamagata
1993年10月21日(木)〜24日(日)

毎年各都道府県を巡回しながら開催されている「日本文化デザイン会議」は、1993年に山形市と米沢市で開催されました。
(代表 黒川紀章、議長 浅葉克己)
講師数120名、参加者数は延べ39,400名にのぼる大イベントでしたが、この時のゲストのおもてなしをしたのが七日町一番街商店街でした。この貴重な出会いを記念し、街路に「デザイン会議'93」のマークを刻んだ記念碑を設置しております。
デザイン会議
ページトップへ▲

★ 元三日町の様子と歴史

元三日町絵画

ここ一番街商店街は、一昔前まで、「元三日町通り」として市民に親しまれていました。
「元三日町」とは何のことでしょう?

最上家紋最上家紋
最上義光が生みの親
 時はさかのぼって、江戸時代。
11代城主最上義光は「山形城二の丸」に重臣を、「三の丸」に武家屋敷を置き、七日町と旅籠町を基点に産業経済の活性化を図りました。その政策の中で、市の立つ日である「市日(いちび)」を冠した「二日町」から「十日町」(一日町と九日町を除く)の商人町を築き、月日の数字に当たる町の順を追って「市」を開かせました。これが、三日町の誕生です。(三日町とは「三日の日に市のたつ町」という意味)
三日町は最上義光の墓所である光禅寺に門前町として栄えていました。笹谷街道として参拝客や旅人が多く行き来するこの場所は、宿場としても賑わいをみせていました。

鳥居家紋鳥居家紋
鳥居忠政による山形藩統治
 元和八年(1622年)、最上氏改易に伴って、遺領のうち二十四万石を鳥居忠政が封じられ、幕府の命により「東国の押さえ」として、山形城の警備強化を図ることとなりました。
忠政がおこなった政治は、「元和検地」「山形城下の改修」「五堰の設置」「生花市場の設置」など、現在の山形の基盤とも言える重要なものでしたが、そのぶん妥協を許さない大改革に、長年最上氏の統治に慣れ親しんだ住民からは、かなりの批判を受けたようです。

三日町の大移動
 忠政は、父元忠の位牌を持参し、鳥居家の菩提寺である長源寺を、最上義光が祭られている光禅寺に仮安置しました。
これに対し、最上家の遺臣が激しく抗議をし、長源寺に寺をゆずり光禅寺は新たに鉄砲町へと移転することになりました。
三日町は元来、長源寺の門前町として栄えていましたから、この移転に伴って三日町の町人たちも移転することになりました。この際に上八日町を三日町と改称、その東方に小荷駄町・肴町を新設し、新しい街として作りあげました。
(笹谷街道も、鳥居時代には八日町から三日町を通り、千歳山麓から妙見寺・釈迦堂、そして新山、関沢を通るように改変をおこなっています。)

その後、山形藩は鳥居忠政から保科家、松平家…と、領主の転封が激しく続きますが、従来からの三日町は「元三日町」と称され、通りの名も「元三日町通り」として近年まで親しまれていました。

現在「七日町一番街」として多くの皆様に愛されるこのストリートには、このような歴史が刻まれています。

「山形風流松木枕」より
 鳥居忠政が長源寺を置き移転したため、長源寺周辺を「元三日町」と称するようになりましたが、この間の経緯についてのおもしろい資料がありますので、ご紹介します。

江戸中期(明和年間)に旅篭町の旅館のご隠居がまとめた観光案内(パンフレット)
「山形風流松木枕」

「その頃は、鳥井(ママ)左京様なりし。この殿気ままにして〜」に始まり、

1)山形城への赴任の際、前任地の磐城平にあった鳥居家の菩提寺である長源寺(位牌)をともにした。
2) 今の長源寺は、元は光禅寺(最上義光の御牌所)であったが、大寺であったので、寺をあけさせ借り受けた。光禅寺側の再三の返還依頼を無視して居すわった。
3) 光禅寺も立腹して評定所へ訴えるため、江戸へ向かったが家老中が驚いて追いかけ途中で説得して連れ帰り
4) 「負けて勝にやあらん」と、小姓町に総桧の結構な寺(客殿)を移築して光禅寺を移転することと結着した。
5) 境内も移り、長源寺町を本(ママ)三日町とし、新しい町家を今三日町と名付けた。

とあります。
この書では、その後累々と鳥居忠政の悪口・雑言を書き連ねています。
この明和の時代に、松平氏から秋元氏へと藩政は移りますが、禄高が6万石と乏しく、隆盛を誇った最上67万石を取りつぶした徳川幕府の直系大名の鳥居家をこきおろして憂さを晴らしたものと思われます。

※元三日町の原稿と絵画は
「おこのみハウスキャベツっこ」経営の佐久間さんに提供していただきました。

ページトップへ▲